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お知らせ
水上 悦子氏スピーチレジュメ
今年2月20日は室崎琴月生誕120周年記念コンサートが高岡市民会館で開かれる。
さらに今年は名曲 童謡「夕日」作曲90周年の節目でもある。これまで琴月の生い
立ちを文章や挿絵にしたり、顕彰活動などに携わったりしてきたものの、その都度、
新たな琴月を発見してきた。「知っているようで知らなかった琴月さん」をあらた
めてたどってみた。
1.ハンディーが音楽の道へ
2歳のときに子守さんの不注意で股関節を脱臼、手当てが遅れ、片足が不自由と
なる。駆け回って遊ぶことができなかったため、幼い時から一人静かに家の中で
ハーモニカをふいたり、オルガンを弾いたりして過ごすことが多かった。それでも
子守りさんを恨むことなく、音楽の道へと夢をふくらませる。19歳の春、家族の
反対を押し切って上京。
2.東京時代の琴月さん<「夕日」誕生秘話と童謡作曲家 室崎琴月>
3年間の苦学の末、東京音楽大学(現 東京芸術大学)本科ピアノ科に入学。在学中、
演奏者から作曲家を志す転機を得る。大正6年音楽学校を卒業し、東京谷中に私立
の音楽学校の草分けとなる中央音楽学校を創設。若き校長となり、作曲の勉強を続
ける。
大正10年、児童雑誌に見つけた葛原しげるの詩「夕日」。最後に「ぎんぎんぎら
ぎら日が沈む」の一行を付け加えることの快諾を得て、誕生したのが、童謡「夕日」。
脚光をあびたきっかけは、2年後に起こった関東大震災。焼け野原となった都心、
夕日に向かって子どもたちが歌う「夕日」の歌声に大人も一緒に歌い、全国に広まる。
さらに学校舞踊家が振付を学校に教えに回ったため、盛んに歌われる。「夕日」は
琴月を童謡作曲家へと決定付けた。時は童謡隆盛期、白秋、雨情、八十などの詩に
曲をつけ数々の童謡を生み出す。
3.戦後、高岡での琴月さん
昭和20年、戦災で全てを失い、着の身着のまま高岡に帰った琴月だったが、作曲と
音楽教育に邁進。琴月作曲「高岡市民の歌」は戦後の暗い高岡市民の心を大いに
元気づけた。
また、様々な新しい形で、音楽を市民の心に広め、活力を与えた。婦人合唱団は
全国先駆けてのママさんコーラス。高岡は琴月のおかげで最先端の音楽教育の恩恵
を受けた。
4.東京と高岡の二つの地で<童謡作曲家を貫いた琴月さん>
昭和43年、琴月77歳、東京谷中に中央音楽学院として音楽学校を再建し、東京と
高岡との両方で音楽活動を続ける。昭和52年、東京谷中の自宅にて86歳で天寿全う。
作曲数は2000を超える。生涯、音楽で子どもたちに夢を与えようとした童謡作曲家
であった。
5.高岡に息づく琴月さん
昭和58年、彫刻のあるまちづくり事業の第1号として「夕日」をテーマにした像
が設置。像の子供達は、夏は浴衣、冬はマフラー姿。琴月の思いに馳せる機会と
なることを願う。
明治,大正,昭和の趣を残す山町筋が、童謡の[琴月通り]としても楽しめる散歩道に
なればと夢みる。生家もある。資料館に琴月資料も充実させて、山町の家々の軒先
に好きな琴月作曲の童謡楽譜を掲げて歌えば、自ずと童謡ファンも訪れよう。
口ずさまれてこそ童謡だ。