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お知らせ
2010年3月第2例会(1289回)
と き 2010年3月19日(金) ところ 商工レストラン
本日は、クローバ会との合同例会です。13名の奥様達に花を添えていただきました。
~例会次第~
会長挨拶
ゲストスピーチ
オリエント・グループ(有)
ルピンスカヤ・ディナラ氏
スピーチで綴る世界旅行
~第11回「ウラジヲストク市 遠くて近いロシア 」
ウラジオストク市は沿海地方南部のピョートル大帝湾の南にある。日本海に突き出したムラヴィヨフ・アムールスキー半島(長さ30km、幅12km、ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーに由来する)南端部の北緯43度7分、東経131度51分に位置し、ロシア海軍の太平洋艦隊の基地が置かれる軍港都市。人口は594,701人(2002年国勢調査)。沿海地方を合わせると100万人。
本日着用されている衣装は、仕事着がベースになった民族衣装で、赤はおまつりなどで着る、少し高級感のあるのもです。
産業は、漁業・林業・機械工業・会場輸送が中心。農産物は米・大豆・ブドウなどです。
全般的に雨が多く、観光に来られるのなら、紅葉の美しい9月がお薦めです。
日露友好の町でもあるので、与謝野晶子の歌碑や、ウラジオ本願寺などがあります。
特筆事項:リピンスカヤさんのすばらしい日本語に感銘を受けました。
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テールツイスターの時間 今日の音楽
フリッツ・クライスラーVol.2
13歳の時にアメリカのボストンで初演奏会を開いて成功を収め、翌年、オーストリアに凱旋帰国。帰国後は「神童」としてもてはやされることを望まなかった父親の勧めで、一般教養を身につける意味もあり高等学校に進学。高等学校では医学を勉強するが肌に合わず本格的に勉強するまでには至らなかった。20歳になった1895年にはオーストリア帝国陸軍に入隊、親衛隊に配属され予備役ながら将校に任官する。一時はヴァイオリンを捨て軍人になろうと決心したこともあったが、家庭の都合で除隊の後音楽界に復帰する。復帰後、再びヨーロッパ各地で演奏活動を開始していった。クライスラーはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の入団試験を受けた事もあるのだが、「音楽的に粗野」「初見演奏が不得手」という理由で落とされている。この頃から、レパートリー拡大のために少しずつ作曲も始める事となった。1899年、アルトゥール・ニキシュ指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演。この公演はウジェーヌ・イザイに激賞され成功裏に終わり、クライスラーの演奏活動はこの頃から軌道に乗り始めるようになる。1902年にはロンドンデビューを果たし成功。それに気をよくししばらくの間はイギリスを本拠地として活動する。同年にはニューヨークで結婚。この頃からレコーディング活動も始める。
大戦終結後はヨーロッパ楽壇に復帰。1923年には来日を果たしている。1924年から1934年までベルリンに拠点を置いていたが、ヒトラーによってナチが政権を獲得すると状況は一変する。クライスラーは最初、大衆的人気に目を付けられ、同じユダヤ系の指揮者レオ・ブレッヒ(彼と録音したベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、クライスラーの名盤の一つに数えられる)ともどもドイツへの残留を要請されるが、断固拒絶。1938年、オーストリアがドイツに併合されたのを機にフランス国籍を取得し、パリに移住した。1939年、ヨーロッパに第二次世界大戦の足音がしのびよると、アメリカ永住を決意してニューヨークに移り、1943年にはアメリカ国籍を取得。以後の生涯では一度もヨーロッパに戻ることはなかった。アメリカ国籍取得の2年前には交通事故で重傷を負い、一時は「再起不能」とも伝えられたが奇跡的にカムバック。放送への出演やリサイタルを断続的に行うも、負傷の後遺症(視力障害や突発的な記憶喪失など。音楽的な感覚は奇跡的に障害から逃れた)が尾を引いたこともあり、1950年に引退。1962年、ニューヨークで交通事故にあい、「20世紀最高のヴァイオリニスト」と称され惜しまれながら死去した。
クライスラー、1910年の録音です。
1、 ウイーン奇想曲
2、 中国の太鼓
3、 愛の悲しみ
4、 愛の喜び
5、 美しきロスマリン